やさしい人たち
六月の、中間試験を控えたある日のことだ。
僕は少し前に起きた世界崩壊の危機を切り抜けたことに安堵し、最近は少々気が緩んでいたのかもしれない。
しかしそれくらいは許されるだろう。なんといっても世界が救われたばかりなのだ。気付いていたのは世界の人口の1%にも満たないだろうが。
さてその救世主である彼は、普通の男子高校生の姿をして僕の前で英語の教科書とにらめっこしている。授業中寝ていたらしくノートに空白が目立つが、決して彼は僕に教えを請うことはないだろう。どうも僕は彼に嫌われてはいないと思うが、疎ましがられている気はする。
普段は涼宮さんに衣装を着せられている朝比奈さんは、今日は珍しく着替えずにこちらも試験勉強をしている。未来の世界でも筆記用具などは変わらないのか、それともこちらに来てから慣れたのか、シャーペンや消しゴムの扱いも手慣れている。お茶だけは淹れてくれていたので、団員はみな湯呑みを片手にお茶を楽しんでいた。
それには例外もいて、長門さんはお茶が冷めるのも気にせず黙々と読書に勤しんでいる。本当に彼女は読書が好きなのか、はたまたそれしか時間の潰し方を知らないのかは解らないが、最早この部室に彼女が読書をしている姿というのはつきものになっている。それこそ朝比奈さんのメイド姿やナース姿と同じくらい、と思ってもいいかとは思うのだが、そう言うとまた彼に文句を言われるだろうか。
そしてこちらも部室につきもの、というか全ての始まりできっと終わりでもある彼女、涼宮さんは二杯目のお茶を手にネットを徘徊しているようだった。彼女も長門さんと同じく試験勉強はしていない。する必要がないのだろう、彼女はとてもとても優秀な人だ。
さて僕は言うほど優秀でもないのだが、この部室で試験勉強というのは些かまずい。何故なら、恐らく涼宮さんがイメージする謎の転校生にはせこせこと勉強する姿が似合わないだろうと推測されるからだ。であるからして僕はちまちまとここで勉強するわけにはいかず、かといって何もしないのでは手持ち無沙汰で、彼をオセロに誘いでもしたら睨まれるのは目に見えていたので、トレーニングと称して一人でオセロをしている。一人オセロは思っていたよりなかなか空しく、やはり二人でやるものだと思う。今度は一人でやっていてもそんなに悲しくないようなボードゲームを探してみようか。最初にオセロに誘ってくれたのは彼だったが、ボードゲームに興じる謎の転校生というのもキャラ付けにはいいかもしれない。何より二人でずっと向かい合っていたところで何もおかしくない。
僕は少しだけ思考を止めた。
今、なにを考えた?
二人で。誰と?
ずっと向かい合って。何故?
よく解らないことを考えてしまった。大抵が益体もない思考で埋め尽くされている僕だが、また意味もないことを。
一人オセロという実に地道で発展性のないことをやっているのが悪いんだろうか。しかしここで突然オセロをかたづけて教科書を広げたら不自然ではなかろうか。悩むところだ。
「ちょっと古泉くん、」
思いがけず声がかかり、僕は顔を上げた。我らが団長殿が団長席から僕をまっすぐに射抜く視線で見ている。珍しいこともあるものだ。大体この一月近く僕が見ていたところ、彼女が呼ぶのはまず朝比奈さんでありその次あたりに彼であった。僕に指名がかかるとは、一体如何なる事態があったのだろう。
はいなんでしょう、と言うつもりだったが、それより彼女の発言の方が早かった。
「顔色悪いわよ、寝不足?」
――正直驚いた。まさか見抜かれるとは。
確かに放課後できないからと夜遅くまで試験勉強をしていたが、まさか気付かれるとは思ってもみなかった。僕のポーカーフェイスとしての笑顔はほぼ完璧だと『機関』の同志にも言われていたのだが。
しかし彼女の観察眼は実はこの部屋全土に渡っているのだと改めて気付かされ、同時に感服する思いだ。僕という取るに足りない存在までも、懐に入れたとあれば気にかける、優しい人なのだ。
「そうですか? 自覚はないのですが、そんなに非道い顔でしょうか」
「ひどいって点じゃキョンの方がよっぽどひどいわよ。そうじゃなくて、なんか熱もありそうだしさ」
「ええっ、古泉くん大丈夫ですか?」
一心不乱にシャーペンを動かしていた朝比奈さんも顔を上げて、びっくりした顔で僕を見た。
さっぱり自覚症状がないので解らない、とは言えず、どうしようかと内心首をひねる。朝比奈さんはわたわたと、保健室に、とか帰った方が、とか細切れに声を上げている。彼女もまた、互いの背景のことを忘れて心から僕を心配してくれているのだろう。優しい人だ。
「体温の上昇が認められる」
心からの驚き、第二弾だ。
あの真の無口キャラの長門さんが、僕のことについて口を開くなど、何かあるのかと勘ぐってしまう。もしかしたら僕は今日の夜あたり急病に倒れて死ぬのではないかと本当にどうでもいいことを考えてしまった。ぽつりと、それでも文章になっているセリフを話した彼女は少しだけ僕の方を見ていたがすぐに本に視線を戻してしまった。TFEIではあるが、彼女ももしかしたらこのSOS団に少々の帰属意識が芽生えているのだろうか。それにしても、下手をすれば一日一言も口をきかない彼女が僕についてコメントするとは、やはり優しい。
「有希まで言うなんてただごとじゃないわ! 古泉くん、今日は試験に備えて家に帰ってゆっくり寝た方が良いわよ、あたしが許可するわ」
さてどうするべきだろうか。
彼女にこうまで言われては帰って寝るべきだろうが、それでは一応の役割である彼女の監視が果たせなくなってしまう。たいした自覚症状もないのだし、少しばかり反論を試みてみるべきだろうか。しかし古泉一樹のスタンスとしてはここではいはいと帰る方が正解なのかと数秒考えを巡らせていると、彼がのそりと顔を上げた。
僕の顔を見て、ああと小さく声を出す。
「今日は帰れ、古泉」
反論する気になれなくなった。何故だろう、言うことをきいてしまいたくなる。
「それがいいと思います」
朝比奈さんも重ねて言い、涼宮さんもうんうんと頷いている。長門さんはノーリアクションだったが、ほんの少し視線を感じたのは気のせいだろうか。
「では、本日はお言葉に甘えてお先に失礼します」
「ちゃんと寝るのよ、明日も辛かったら休んでも構わないわ」
「明日までには治しますよ」
今日の早退と明日の団活動の休みの許可までもらったが、そこまで甘えるわけにもいくまい。
僕は途中だったオセロを片付け、鞄を持って立ち上がった。
「キョン! 校門まで鞄持ってってあげなさいな」
「え、そこまでしていただくわけには」
流石にその提案にはうなずけない。彼にそんなことをさせるわけにもいかないし、この部室から彼を遠ざけるのもあまりよろしいこととは言えない。
「いいのよ、病人が遠慮するもんじゃないわ。でしょ、キョン!」
すっかり病人にされてしまった。彼はへいへいと面倒そうに立ち上がり、僕の手から鞄を奪い取り、さっさと部室の外へ出てしまう。
「あ、ではこれで。また明日」
「ええ、またね!」
「お休みなさい」
朝比奈さんの挨拶は微妙に変だったが、会釈することで終わらせた。
部室を出たところで、彼が待っていた。
「あの、いいですよそんなこと」
「お前なあ」
怠惰そうに彼は僕を振り返り、呆れた声で言う。
「いつもより全然ぼーっとしてんだよ。自覚無いんだろうが」
二、三歩歩いて彼に追いつく。そうだっただろうか。
「具合悪いときまで無理しなくていいんだ、そんなときくらい自分を優先させろ」
ぶっきらぼうな彼の目に、僕は見たことのない色を見た。
そして初めて気が付いた。
僕は彼に心配されているのだ。
だから、当然言うべきだった自分より世界がとか、『機関』の命だとか、そんなことが全部吹っ飛んでしまった。ああ、なんだ。そうだったのか。
「……了解しました」
だから僕の言うべき言葉はこれしかない。
後できることと言ったら、できるかぎり早く布団に入って眠ることだろう。
気のせいか目の前が少しくらりとする。
僕たちは黙ったまま、廊下を歩いた。
彼もやさしいひとなのだ。
End.
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