雪山遭遇白昼夢



休息を取ろうという彼の提案に従って、僕たちは各々の部屋に引っ込んだ。
確かに些かならぬ疲労を感じていたので、得体の知れないベッドに潜り込んで割とすぐに眠ったのだと思う。いくら思索が三度の飯より好きだと彼に思われている節のある僕とて、脳に休息を与えてやらなければうまく働かない。尤も、あらゆる仮説は無駄にこそならないが役にも立たないだろうことはわかっている。閉鎖空間以外での突発的事項にはあまりにも役立たずな自分が少しばかり嫌になった。
どのくらい眠っていたかはわからない。無防備に熟睡するつもりはあまり無かったが、なにせこの館内での体感時間が当てにならないことは立証済みだ。
だがとにかく僕は、その声によって起こされた。
「古泉」
いつもの彼の声だった。それ以外に何一つ音はせず、僕は思わず起き上がって声の主を凝視した。
一体いつどうやって移動したのか、隣の部屋で眠っているはずの彼が窓辺に突っ立ってこちらを見ている。僕はいつから、人の気配に気づけないほど鈍感になった?
「どうかしたんですか」
とりあえず口から出たのはそんな言葉だった。いっそこれは夢なのではないかとすら思われる。
何かがおかしい。だが、何がおかしいのかが今の僕にはわからない。
「古泉……」
彼は少しばかり顔を曇らせて、ベッドの方へと歩み寄ってきた。例え照明らしきものが窓を透過する雪明かりだけだとしても、彼の姿を間違えるなどということはありえない。
そして勧めもしないうちに足下の方に座ったので、僕もそれに合わせて座り直した。
「どうしました?」
もう一度尋ねてみる。彼は戸惑うように表情を揺らし、僕を見てきた。やはり、何かがおかしい。
「……不安なんだ」
ぽつりと彼は言った。僕を見上げたままのその顔には、不機嫌さも怠惰さも一片も含まれてはいない。縋るような、実に不安定な表情が浮かんでいた。なんだこれは。
「このままどうなるのか、わからなくて不安なんだ。古泉……」
こんな、信頼と期待を滲ませた声色で僕を呼ぶ彼は知らない。
「そばにいてくれ」
あまつさえ彼は、こんなことまで言い放ったのだ。なんだ、本当に夢なのか、これは?
はっきり言ってありえない、と言いきれる。彼が貴重な睡眠時間を放棄してまで僕に会いに来るか、と聞かれれば常に答えはノーだ。こんなことぐらいでしかノーとは言えない僕ではあったが。
思わず頭大丈夫ですか、と殴られそうなことを口走りそうになる。
だが、それが口から出るよりも彼の言葉の方が早かった。
「お前しか信じられない」
――鳥肌が立つかと思った。
やばい。切羽詰まった声ならいくらでも聞いてきたし、ほんの少しだけ甘えを含んだ言葉を享受したこともある。
だが、この純度100%! と銘打ちたくなるような信頼感ははっきり言って気色悪かった。
彼が僕を信じてくれていないわけではない。だが、それをこうまであからさまに表すような人でもない。有り体に言うなら青春漫画の主人公が親友に向けるような、そんな感情は彼と僕には不釣り合いだ。
ああそうとも、前述の台詞がいかにも仕方なくと言わんばかりの不器用さとぶっきらぼうさをもって発せられたならばそばにいてくれぐらいの台詞は許容できる。むしろこちらから抱きついてしばらく離してやれなくなるぐらいには。だがお前しか信じられない、はないな。と僕は理解している。常識的に考えて。
例えば一億二千万年後だかに飛ばされたり、宇宙の彼方へ連れ去られたりして僕と彼しか互いに認識出来るものがなかった時にそういう言葉を聞く機会があるかもしれないが、そもそも前提がない。
そうして黙り込んでしまった形になった僕を不審に思ったか、彼はくいくいと袖を引っ張って自分に注意を向けた。
「なあ……一緒に寝てくれないか?」
……一体彼の身に何が起こったというのだろう。
僕は一瞬確かに意識を遠い宇宙にまで飛ばしてから、何故だか頷いていた。
彼の言うことはできる限り叶えたいという情けない条件反射が入っていたのは否めない。
だが落ち着け、僕は僕の感覚を信じるべきだ。とにかく落ち着くんだ古泉一樹。
すいと首元に手をやった動作を目で追いかけて、僕はようやくその決定的な違和感に気がついた。
彼は普段の制服を着用していて、そのネクタイに指先を引っかけている。
これは。
そのまま彼はある程度までネクタイをゆるめると、上から一つずつワイシャツのボタンを外し始めた。
ちがう。
そして、何故か中途半端なところで手を止め、僕の後頭部に手を伸ばし、一気に自分の肩に押しつけるように引き寄せた。
まて。
顎から首にかけて、ざらりとしたおなじみの制服の感触が襲ってくる。反射的にその首筋にくちづけかけ、
それだ。
どん、と胸元を弾くように彼を押しやった。
「あなたはどなたですか」
彼を判断する基準などいくらでもある。積み重なった違和感が爆発したのは、彼のそこを見たからだ。
いつだったか見つけた首筋、そこにぽつりとあったホクロがなくなっていた。
彼は不安定だった表情を改め、挑むような目で僕を見ている。
「何故? 俺じゃだめなのか?」
だめだ。本物の彼であるならば僕はとっくに理性など放棄していただろうが、そもそも彼は隣近所に彼女たちがいる状態で僕の部屋に忍んでなど来ない。来るはずがない。この異常な環境に弱音を吐くぐらいはしても、僕に縋りはしない。
彼と僕なら、並んで頭か体を動かしている方があっている。
「違います。あなたではだめだ」
彼の台詞をそのまま返した。もの悲しそうに変化した表情に動揺しないといえば嘘になる。
だがこれは彼ではないと、僕はすでに確信していた。
「古泉」
一縷の望みをかけるように彼は呟いた。
だが、最早騙されはしない。むしろ、この状況で出てきたならば打開策も知っているかもしれない。これ自体が罠なのかもしれないが。
「あなたの目的は何です? そして、この館の意味は」
これぐらいは聞かせてもらわなくてはならない。彼の姿を取るなど、手の込んだ侮辱もあったものだ。
だが相手は鮮やかに表情を変えた。
くいと唇の両端を持ち上げ、彼と似ているようで似ていない笑みを浮かべたのだ。
そして彼は瞬時に立ち上がり、走ってドアへと向かった。慌てて立ち上がる隙に、未練はないとばかりにドアを開けて廊下に出ていく。ドアが凄まじい音と共に閉まった。
しまった、逃げられては意味がない。これでは僕はただ混乱して鳥肌を立てただけになってしまう。
消えた偽物を追うように小走りでドアに向かい、開く。
バン、とかなり大きな音がして、周りを起こしてしまわないかと心配になり、そして一瞬にしてそれが杞憂だと知った。
全員揃ってドアノブに手をかけた姿勢で、SOS団メンバーが顔を突き合わせていたからだ。
みな、長門さん以外は呆然と互いを見ている。その中でそっと横の彼を伺うと、もちろん風呂上がりに見た緩い上下を着ている。
願わくばああいうことは偽物ではなく本物にしてもらいたいものです、と思いながら状況の把握に努めていると女性陣を一瞥した彼がこちらを見た。心の声が聞こえていないかとふいに不安になって、軽く鼻先をかいてごまかした。



結論から言えば、あれは長門さんが脱出のために作り出した幻影だったというのが限りなく正答に近いだろう。
脱出の過程で彼に信用されたことに少々驚いたが、それくらいの信用ならば鳥肌の出番はなかった。
やはり本物に勝るものはない、と心底実感できたことは、彼には秘密にしておかなければならないな。



End.



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