悪夢を変える方法
「……っ」
目を開けたら、見慣れた天井があった。
そのことに安堵して、あれが夢であったことに心底感謝して、しかし尚臆病な心は恐る恐る隣を確認するしかない。いい加減見慣れた自分の部屋、自分のベッド、枕元に置いてあるアラーム付き蛍光デジタル時計は深夜三時過ぎを示している。
そっと送った視線の先に、果たして彼はちゃんといてくれた。
眠りについたのを確認したときの姿勢のままに、寂しいことに僕に背を向けて眠っている。だが、そのそっけなさに似た気安さに助けられているのも確かだ。カーテンも閉め切って電気もついていない部屋で、彼の短い髪を見ているだけで超特急だった心臓が静まっていく。
ああ、嫌な夢を見た。
実に穏やかで平和的な夢、だがあれほどまでに恐い夢はあまり見たいものではない。
彼の声が聞きたかった。
しかし、これしきのことで彼の睡眠を邪魔するのも忍びない。明日が休みとはいえ、安らかな眠りを貪ることは彼の好むことだからだ。明日の朝、こんな夢を見たんですよと冗談めいて話し、なんだそりゃ馬鹿か、と返してもらえばいいのだ。それだけで僕は救われる。それに、眠ってしまえばこんな深夜に見た夢のことなど忘れられるかもしれない。そうだ、眠ってしまえばいい。
彼の後頭部をしばし凝視してから目を閉じる。少々やんちゃしたせいもあって、彼に負けず劣らず僕だって疲れているのだから、眠りはすぐに訪れる。そう思っていた。
いつまでたっても訪れない眠りにしびれを切らせて、僕はついに目を開けてしまった。時計を見れば、起きた時から40分は経っていた。寝返りをうっては起こしてしまうかもしれないからと、仰向けのまま固まっていたものだから少し窮屈だ。
しょうがない、人の体温でも感じればまだましかもしれない、と誰にするでもなく言い訳をして、彼の肩に手を伸ばした。
朝起きて抱きしめていたら怒るだろうが、安眠のためなのだから寛容にお願いしたい。
肩に触れると、ころりと彼は寝返りをうった。
びっくりして手を引っ込めると、安らかだった寝顔は瞬間にして消え失せ、ふいに眉が寄った。それから、さも大儀そうにまぶたが上がる。
まずい、起こしてしまった。
「……なんだ」
いかにも眠そうに、少し掠れた低めの声が非難するようにかけられた。その言葉すら嬉しいと感じる僕はちょっとどうかしているだろうか。一度仰向けになった体ごと、ごろりと反転して僕と向かい合う。
「いえ、あの」
なんと言ってごまかそうかと言葉を濁していると、緩慢に伸びてきた手が中途半端な位置にあった僕の手首を捕らえた。
えっと、どうしましたか。
「なにがあった」
少し不明瞭な声は、驚くほど的確な言葉を口にした。
なにかあったのか、ではなくなにがあった、はすでに確信している様子で、この際暴露してしまってもいいのではないかと思わせた。普段ならくだらないと切って捨てられるような、自分だってそう思うような、そんな夢の話を。
「嫌な夢を見ました」
自分の声は情けない響きを伴ってはいなかっただろうか、とそれが気になった。
「あなたが、結婚してしまう夢です」
彼はぱち、ぱち、とゆっくり二度瞬きをした。こいつ何を言っているんだ、と今にも言いだしそうな顔をしている。
「相手はわかりませんが、それがあなたの結婚式であるということを僕は知っていた。そして、非常に上機嫌で嬉しそうなあなたと向かい合って話をしているんです」
「……いやだったのか」
ええそうです、と頷いた。
なにせ夢の中の彼は、写真に残しておけるものなら残しておきたいと思うような、実に幸福で穏やかな笑顔を終始浮かべていたのだから。
それが自分のためではなく、他の誰かのための笑顔であることを不快に思った。
そして同時に、いい知れない不安を覚えた。
「だって、僕はどうしたってあなたと結婚はできない」
彼はどうしてか僕の手首を握ったまま、僕の顔をしげしげと眺めていた。なにかついてますか。
「そうしたら恐くなって……起きた時それに気がついて、非道く恐かった」
ふうんと気の抜けた声を出して、結婚式ねと彼は呟いた。
「俺にタキシードすがたはにあわんだろうな」
お前ならきっとぴったりだ、しろいタキシード、と脳内で僕にその衣装を着せているのかいささか遠い目で彼は言う。誉められても嬉しくない。だってそんな僕の隣にあなたがいない空想なんてしてほしくない。
「ところで、俺はねむい」
突然話題をぶった切った彼は、そっと微笑んだ。
台詞と表情が合っていません。
「だからきっと、これはねごとだ」
宣言してからの寝言ってなんですか、とか、眠い時ではなく眠っている時の言葉を一般的に寝言というのでは、とかの、普段の僕なら言っているであろう言葉は口から出ることはなく、ただ聴覚と触覚と視覚だけをフルに活動させていた。これは、何か言ってやる、という彼からの合図だ。
「だれとの結婚式だかわからんのだったら、お前とのだったかもしれんだろう」
びくりと体を震わせてしまったことを、彼は気がついただろうか。握られた腕から、僕らを挟む布団から、至近距離にある視線から気付かれてしまっただろうか。
「じっさいお前と結婚式などするつもりはないし、ほかのだれともしない」
だが、と確かに眠そうな瞳と口調で彼は言う。泣きたくなったのは何故だろう。
「ゆめのなかでぐらいなら、お前と結婚式してやる」
だからねろ、と反対側の手でぽんぽんと僕の頭を叩き、そのまま目を閉じてしまった。
そのままだ。
握った手も離さず、体と顔の向きも変えず、僕の目の前にその無防備な寝顔一歩手前を晒している。
あなたは一体何でできているんでしょうか。
僕の心をどうしようもなく、プラス方向にもマイナス方向にも揺さぶるあなたは、一体何でできているんですか。
途方もなく優しく、僕を甘やかすその正体を、覗いてみたいと思った。
抱きしめたくなったけれど、彼の手を振りほどくのは気が引けて、僕も向かい合ったまま目を閉じた。
くらりと来るほどの強烈な眠気が襲ってきて、ああ今度こそ眠れるのだと思う。
そして今度もまた、結婚式の夢を見よう。
僕は白いタキシードで、彼は黒いタキシードで、二人して幸せな笑顔で、結婚式をしよう。
今度は僕は恐れにまみれて起きることはない。
贅沢すぎる許可を抱えて、落ちるように眠った。
End.
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