雨が降ったら嘘を



「古泉」
別に声をかけたくてかけたわけではない。
だが、目の端で空模様と鞄を数回往復するように視線を動かされちゃ、気になるってもんだろう。
「傘ないのか?」
ぱん、と濃紺の傘を開いた俺に、古泉は微苦笑を向けてきた。
「そのようです」
困りましたね、とちっとも困って無さそうな口調で古泉は視線を空に戻した。
昇降口から見える空は濃灰色に覆われており、分厚い雲から落ちてきた水は遠慮無く地面を叩いていた。あの灰色の空間に似ているようであり、その騒がしさは全く似つかないものだ。
「そうか」
しかし、俺も折りたたみ傘など持っているような几帳面な性格はしていない。そもそもこの傘だって、数日前にうっかり学校に置いて帰った傘だ。今回だけはそれが幸いしたな。
本日のSOS団活動は終了済みだ。ハルヒは雨の匂いをかぎつけるヤギみたいに、降り出す前に帰っていった。長門はごく自然にその後を追い、朝比奈さんはお茶のセールなんです、とキャンペーンガールに起用したら国民の茶消費量が1.5倍にはなりそうな笑みと共に去っていった。
それなら俺もさっさと帰りたかったところだが、あいにくちょうどその時古泉とやっていたモノポリーがいいところだったのだ。どうせ帰ってもすることは宿題ぐらいだったので、ついつい最後までやってしまった。結果? 当然というのもなんだが、いつものごとく俺が勝った。
さて一息ついて帰ろうか、と腰を浮かせたところで雨が降り出したのだから、これは不運としかいいようがない。俺の不運なんぞいつから始まっているのかわかったもんではないからそれは置いておく。
「まあいいです、たまには濡れて帰るというのも悪くないでしょう」
そう言って、靴を履き替えた古泉はためらわずに雨の中に足を踏み出した。容赦なく叩きつける雨が古泉の髪を、肩を、衣服を濡らしていく。数歩進んで、やつは立ち止まった。
「どうしました?」
雨など目に入っていないかのように振る舞って、俺を呼んでくる。俺は小さくため息を吐いて、傘を頭上に掲げて歩き出した。すぐに古泉に並び、追い越す。
地面に落ちる音とは違う、ぴんと張ったナイロンにぼつぼつと雨粒が落ちる音がする。俺は何も話さなかったし、古泉も話しかけては来なかった。校門をこえ、坂を下り始めた頃には古泉のブレザーは水を含んで濃い色を晒していた。
ああ全く、面倒くさい。
こいつではなく俺自身が面倒の対象なのだから、これはちょっと救えない。
「?」
きょとんと書き文字をつけてやりたくなるくらいの顔で古泉がこちらを見た。その顔には水滴こそしたたっているが、新たな粒は当たらない。
「……どうしたんです」
さも意外だと言わんばかりの表情を笑顔に混ぜる技術には感心してやってもいい。
「別に」
短く答えたのは、顔に当たる雨粒が意外に鬱陶しかったからだ。また強くなってないか、これ。
「あの、僕は平気ですから、ご自分を」
雨の日に、わざわざ散歩している犬と飼い主を見たことがないだろうか。そんでもって、その飼い主が自分が濡れてるってのに傘を愛犬に差し出している姿を。妹がカッパ着てはしゃぎ回ってるから、いくらなんでも濡れすぎだと上から傘をプラスしたことは?
俺はあるね。そして、まあ、なんだ、別に古泉が濡れようと風邪引こうとどうでもいいっちゃいいんだが、とにかく俺の傘は所有者の頭上の雨ではなく古泉の頭上をカバーしていた。要するに、人間一人分ぐらい空いた隙間を通り越して古泉に傘を差してやっているというわけだ。当然俺まで傘の恩恵があるわけでもなく、みるみるうちに服だの鞄だのが水気を帯びてきた。
「やかましい、見てる方が気になる」
うお、髪から水滴が垂れてきた。酸性雨とか怪しげな物質が混じってないことを祈るぜ、ハゲたくはないからな。
「しかし……風邪を引きます」
古泉は存外慌てているようだった。俺が歩きっぱなしなものだからこいつも並んで歩いているんだが、傘の下から逃げようとするような動作をしやがる。跳ね回る妹をとらえる俺のホーミング機能を馬鹿にしない方がいい。
「お前が風邪引いたら困るだろうが」
うん、どうでもいいというのはぶっちゃけ嘘だ。なんてったって、俺が風邪で休んだところでハルヒは馬鹿でも風邪引くのね! だのと腹が立つことを言いつつ放っといてくれるだろうが、こいつが風邪で休んで数日欠席とかになったら俺はしばらく放課後何して暇を潰せばいいんだ。お前がいないからってハルヒのイエスマン代理をやるのはごめんこうむるぜ。
「あなたの傘ですから、ご自分を」
正論だな。正論過ぎてなんかむかつく。お前は俺のわずかな好意を無視するようなそんな奴だったのか? それとも、俺が自分だけ傘差して歩いているのにちらとも罪悪感を感じない冷血漢だとでも?
「そういうわけではありませんが、あなたに風邪を引かれたら僕も困ります」
「……そうか」
平行線に近づいてきた。こと論戦になると俺はこいつに勝てる気はしないのだから、その前に結論を出してしまうに限るな。
言っておくがこれは、犬やら妹やらに向けるような濡れてたら寒そうだな、だの風邪引かれちゃたまらん、だのの感情の集大成であり、別段他の意味を持たない行為だ。この世のどこかに本物のテレパシストがいるなら読んでもらったって構わない。…………いや、やっぱり遠慮しておこう。適度にプライバシーを主張するのも若人のすることだし、俺の益体もない思考など読んだところで彼あるいは彼女が得するわけでもない。
ともかく俺は、自分もいい加減濡れるのが嫌になってきたというのもあり、古泉の右腕をひっつかんで空いていた隙間を埋めた。そんで、傾けていた傘を水平に戻す。この際のポイントは、自分たちの姿を決して客観的に見ないことだ。埋まりたくなるからな。
「えっ……」
古泉が笑顔と驚きの中間ぐらいの顔で固まる。割と面白い顔だな、古泉セレクションでも出たらコアな人気がつきそうだ。
「あ……の」
「なんだ」
俺はいっそうずかずかと歩き続けた。折りたたみ傘でないのは幸いだった、あっちではサイズのせいで半身ずつ雨を免れたら幸運ってとこだろう。
「……いえ、ありがとうございます」
何やら言いたげにしていた古泉は結局それを口にすることはなかった。坂はそろそろ終わりが近づいてきている。
「やはり、少しは濡れますね」
「一人用だからな」
結局二人とも少しずつ肩を濡らしているが、まあ二人ともこれまた同程度に濡れているのだから気にすることでもあるまい。足下に目をやると、裾はすでにびっしょり濡れていた。
ばしゃんと古泉が水たまりに足を突っ込んだ。おいおい珍しいなと目を向けると、予想通りの少し照れたような苦笑が返ってくる。
「すみません」
「謝るな、たいしたことじゃない」
すこし浮き足だっているようです、と小さくこぼした言葉は雨粒が傘を叩く音で聞こえなかった。ということにしておこう、うん。
そうこうしているうちに別れ道にさしかかり、古泉は軽く手を上げて雨の中に踏み出した。
「ありがとうございました、おかげで助かりましたよ」
「そりゃどーも。ちゃんと風呂入れよ」
「ええ」
それからまあ適当に別れの挨拶をして、どうせ明日も会うだろう野郎に背を向けた。だが、俺には一つ言い残したことがある。
「古泉」
歩き出していた古泉は振り返った。再び雨に濡れ始めた手で、鞄を持ち直している。
「嘘はもっと上手く吐け」
普段の嘘はあんなにもっともらしく上手いのにな。まったく、雨のカーテンに遮られた向こうの表情をもっとクリアに見たかったぜ。きっと呆然としているに違いないんだからな。
相手の反論を待たず、俺は背を向けて歩き出した。体が冷えちまったから、家に帰って暖かいもんでも飲んで風呂に入らなきゃならん。
俺は家に帰ってからのことを考えるのに精一杯で、聴覚は聞こえるはずもない古泉の溜息とぽん、と傘が開く音が聞こえたような聞こえないような曖昧になっていた。
それが俺に対する答えだったのか、そんなことは俺の知ったこっちゃないね。
肝心なところでどっか臆病なあいつを、俺は少しばかり好ましく思っている。
何故かって、そういうのも恋って言うんだと、俺は知っているからさ。



End.



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