甘い休日
今日は朝から雨だった。
最近の日本という国の傾向として、日付を確定された祝日ではなく第何月曜日、などという連休をもたらすための祝日が増えてきているが、今日はそうではなく日付からなる休日である。明日も昨日もまごうことなく平日だからだ。
さて、その貴重な休日の僕の予定は、雨が降っているという時点で崩壊したと言わざるを得ない。本来なら彼と共に出かける予定があったのだが、あいにくの天候だ。僕としては雨の降る中を傘を差しながらそぞろ歩くというのも悪くはないと思うのだが、それで彼の体調を崩してしまっては申し訳ない。ならば本日は僕の自室でのんびり過ごすというのもありだろうか、と彼に確認の電話をかけようとした、ちょうどその時だった。
彼からの電話があったのは。
電話口の彼は僕がワンコール以下の早さで電話に出たことをまず不審に思い、それから多少申しわけなさそうな声を出した。今日は会えない、と言われることをその数瞬で覚悟していた僕は続いた言葉にむしろ安堵したものだった。
なんでも、彼の愛すべき妹さんがお友だちと遊ぶ約束をしていたのだが、雨が降ったためそれが中止となった。その妹さんを振りきって出てくるのはたやすいとは言わないがまあ可能なことだったが、意気消沈した妹さんに彼の母親が同情したのもあり、かといって僕との約束を無下にする気にもなれない。この時点で僕の心臓はサンバ的なリズムと共に僕の感情の昂揚を伝えていたのだが、そのあたりは彼には秘密である。そんなわけだから、
『今日は俺の家でゲームでもしないか、妹つきで大変やかましいかもしれないが、これが大体の妥協点ってとこだろう。ああそうだその際母親が昼食をお前の分まで作ると張り切っているから支度が出来ていたら今からでもかまわんから早めに来い、どうする?』
などという言葉が携帯から漏れ出てきたときには答えは決まっていた。その裏側に断るはずがないだろう、でも断られたらどうするかな、的な彼の心情が透けて見えたとあらば尚更だ。それに雨の中呼び出して帰らせるという彼の健康に良くなさそうな行為をさせる必要もなくなった。
「もちろん、喜んでご招待にあずかりますよ」
その時の彼の返事が、適当に頷いた様でいてほっとした声であることを僕は覚えている。
さて、傘を差して彼の家に赴いた僕を待っていたものは、彼の仏頂面だった。
なんだろう、この数十分の間になにか彼の心情を変えるようなことがあっただろうか、またはしでかしてしまっただろうかと考え出した僕を見て、あー、と眉間を指先で揉みながら彼は弁解した。
「……なんというか、すまんというか、昼食が昼食でなくなったと言うべきか……」
よく解らなかった。
「いや、電話した時点ではまともな飯のはずだったんだ。だが、妹が少女漫画だかで見た物が食いたいと言い出してな、どう考えても高校生男子の昼食のメニューじゃないんだ。それを母親まで乗り気になるものだから」
つまり、昼食が少女趣味めいたものになってしまったことを詫びてくれているのだろうか。そんなことを気にかける必要はないのだが。
「大丈夫ですよ、それが妹さんの望んだものでなおかつあなたのお母様の手によって作られたものならば僕はなんでも美味しく頂ける自信があります」
「……何故そんなに歯の浮くような台詞を吐けるのか、俺は一度じっくりお前に問いただしたいと思っている」
「特別な理由はありませんよ、それにあなたと一緒にあなたと同じ物を食べることが僕は嬉しいんです」
「わかった、わかったから家族の前でその物言いは禁止だ」
そんなことは解っていますよ、僕だって時と状況と場所をわきまえます。
こんな会話をしながら傘を畳み、彼の家に上がるとまず妹さんが奥から駆けてきた。
「わー、古泉くんいらっしゃーい」
「お邪魔します、雨で残念でしたね」
「また今度遊ぶ約束してるから、いいの!」
無邪気な妹さんの言葉に、それなら俺を引き止めた意味はどこにあったんだ……と懊悩する彼の姿が目に入ったが、妹さんは全く気にしていないようだった。僕の腕をぐいぐいと引っ張る。
「もうすぐご飯できるよ、おかーさんが今手放せないからお迎えできなくてごめんなさーい、って!」
「いえいえ、お気遣い無く」
「こら、そんなに袖を引っ張るんじゃない」
彼がさりげなく僕の腕に絡む妹さんの手を退ける。
「とりあえずこっち来いよ、もうすぐ飯なのは確かだ」
「楽しみです」
「期待すんな」
そう釘を刺して、じゃれつく妹さんを連れて短い廊下を歩く。なんとも平凡な雨の日の休日といった風情で、その分胸が少しだけ痛んだ。なんということのない、郷愁。
通されたのはリビングで、タイミング良く彼の母親が皿を持って顔を出した。古泉くんいらっしゃい、狭い家だけどゆっくりしていってね、のようなことを口にする彼女の声は優しく、その風貌は彼と妹さんに心なしか似ていた。会うのは初めてではなく、僕も感謝の言葉を口にする。
だがさてはて、彼女が持ってきた皿が目の前に置かれた瞬間は、さすがに絶句した。
自分の分の皿を台所から運んできて、部室の定位置のように向かいに腰を下ろした彼がだろ?と確認するように呟く。続いて妹さんが大喜びで皿を運んで、彼の隣に腰掛ける。
「おいしそうー、パンケーキ!」
なるほど確かに、男子高校生の昼食のメニューではない……と、僕も思った。これを食べて絵になるのは女性や子どもであり、どちらかといえば朝食もしくはブランチのメニューだ。さもなければおやつ。彼はあきれ顔を隠そうともせず僕にはちみつの入った入れ物を差し出した。
第一印象は薄いホットケーキ、きつね色に見事に焼けた表面は彼の母親の料理の腕を端的に表している。それが二段重ねになっており、間に挟まっているのはバナナだろうか。上には切られたイチゴがきれいに並べてあり、バターは溶けて染みこんでいる。急だったから生クリームとチョコクリーム無かったの、ざんねーん、と言う妹さんの台詞を僕は上の空で聞いていた。
はちみつの器をそっと引き寄せると、丸みを帯びた透明な器はどこか暖かく僕の指に触れた。キャップを取って逆さにすると、思った以上の量のはちみつが出てきて困惑する。とろりとかかったはちみつで、このパンケーキは完成したと言っていいだろう。
はちみつは妹さんの皿の上に、彼の制止があるまでぶちまけられ(それ以上かけると虫歯になるとか果物の味がわからなくなるだろうとか言っていた)、それから彼の取り分の上に慎ましくふりかけられた。
雨の日に、ここまで柔らかな食事を取る。
彼の母親がお盆にカップを乗せて台所からやってきた。一人一人の前に紅茶が置かれ、僕がいくつかの質問を受ける。アレルギーはないか、果物は食べられるか、紅茶に砂糖は入れるか、イチゴが余っているけれどもう少し食べないか……それに細々と答えていると、彼が止めてくれた。砂糖の入っていない紅茶をかき混ぜながら、冷めるだろうと。
「ちなみにうちの紅茶はティーバッグだから期待するなよ」
いやねえこの子は、そんなこと言わないで、と彼女は彼の頭を軽くはたいて、お口に合わなかったらごめんなさいね、と言って三度台所へ引っ込んでしまった。そんな上等な口を持った覚えはないのだが、誤解されてしまっただろうか。
「僕のうちにだってティーセットはありませんよ」
半ばフォローの意味で少し音量を上げて告げた。わかってるよと彼が意地悪く笑う。
いただきまーすと、大層嬉しげに妹さんがパンケーキに手を出した。僕も習っていただきます、と挨拶をする。それを見た彼も、いただきますと低い声で唱えた。
添えられたナイフとフォークで切る。ナイフがあれば力の加減が解るので、皿の上は大惨事にはならない。フォークのみだと中身が飛び出したりして酷いことになっていただろうというのは、経験則だ。上に乗ったイチゴを一通り食べてしまう妹さんに対して、彼は乗っているイチゴが均等に一切れずつの上に乗るように切り分けていた。そこへ彼の母親がやってきて、妹さんの皿にイチゴを追加して去っていく。なるほど、慣れている。
イチゴと、パンケーキを一切れずつ口の中に含んでみる。あまい。
バナナとパンケーキも同じように。あまい。
イチゴとバナナとパンケーキを一口に食べてみる。あまい。
それはあまい昼ご飯で、なによりとても楽しかった。
妹さんが笑う声もあまく、彼が旺盛な食欲でもって平らげていく皿に残ったはちみつもあまく、なによりこの雨音の中、守られているような空気があまかった。
そうか、お母さんというのはこういうものだったっけ、と僕は思い出した。
ちなみに彼の父親は休日出勤らしい。
自分の分を焼き上げた彼の母親がやってきて、席に着く。まだ大分残っている妹さんの皿と、ほとんど食べ終わっている彼の皿を見比べて満足げに頷き、僕の皿に目をやった。僕は紅茶を飲んでいるところで、彼女はほんの少し目を丸くして(それが彼そっくりで、僕は少し驚いた)、ありあわせの材料だったけれど、美味しかったかしら、と不安げに尋ねた。
僕は頷いて答える。
「とても美味しいお昼でした、ごちそうさまです」
小さな欠片一つ残っていない、からっぽのお皿の前の席で。
End.
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