愛なる称名



カチカチ、と部室に響いていたマウスのクリック音が止まったことを、不審に思ったのは事実だ。今日ハルヒと俺は共に部室に赴き、部室内にはすでに女子二人が揃っていた。残りの一人であるイエスマンは少々遅れており、だからクリック音が途絶えたのを最初はそいつに挨拶するためだと思った。
だが、「どうも遅くなりました」と常のごとく笑顔で入ってきた古泉に三者三様の返事をした(当然長門は顔も上げなかった)後、ハルヒは勢いよく立ち上がった。
ああまた何か言い出すぞこいつは、と半ば諦めを込めて湯飲みに口を付けた。本日も麗しい朝比奈さんから賜った茶は、妙に不自然な甘ったるい味がしたがそれもまた彼女の御手によるものだと思えば至上の味である。
「あだ名よ!」
オーケー解った、主語と述語と目的語を揃えて喋ってくれ。
「あたし思ったのよね、このSOS団も結成して長いけど、まだどうにも他人行儀なところがあるわ」
それは……仕方ないんじゃ無かろうか、ということは口には出さなかった。なんだかその辺を突っつくと蛇が出てきそうでな。朝比奈さんの泣き出しそうな顔など俺は見たくないし、長門のそれなら天変地異だろうし、古泉がそんな表情ここでしようものならリアクションの取りようがないではないか。
「で、ほらハンドルネームとかあるでしょ、普段の自分とは違った呼ばれ方、呼び方をすることで人は開放的になれるのってわけ」
要するにネットサーフィンの途中で掲示板上かどっかで仲良く喋っている人々を見たんだろう。そしてその人物たちは本名なわけはなく、ハンドルネームすなわちあだ名みたいなもんで呼び合っていたと。それは解るんだが、それを俺たちにまで要求するのは筋違いってもんじゃないか。そもそもその理屈なら俺の呼び名はどうなる。年中無休で間抜けなあだ名だぞ。
「あんたはいいのよ」
実にすっぱりと切って捨てられた。なんてこったい。
「とにかくあだ名よ! そうねー、みくるちゃんはみくるんとかどう!?」
「ふ、ふええ、みくるんですかー?」
ハルヒはすかさず朝比奈さんに飛びついた。みくるんねえ、確かに彼女のかわいさとふわふわ感を補って余りある呼び名だとは思うが。……待て、俺もそれを呼ばなきゃならんのか?
正面に目を戻すと、そこには古泉のニヤケ面が待っていた。だが、いつものように余裕のある笑顔ではない。
「あだ名とは愛称とも言いますからね、愛情を込めて呼ぶという点では正しいでしょう。相変わらず素晴らしい発想ですね」
俺に聞かせたいのかハルヒに聞かせたいのか解らんが、とにかく古泉は追従した。だが古泉よ、このハルヒの提案に乗るということは図らずもあだ名なんぞで呼び合わなければならんということなんだぞ。高校生にもなって、だ。あだ名がまかり通ってる俺が言うんだから間違いない。
「そうね、有希はやっぱりゆきりんでしょ。古泉くんはいっちゃんよ!」
「……了解しました」
おーい、ちょこっと口元ひきつってんぞエスパー太鼓持ち。大体その呼び名だって以前お前がふざけて提案したものだっただろうが。長門はと言えば、やはり我関せずで本と向かい合っていた。
「そうか、じゃあお前はハルハルだな」
「えーいいわよ、それからあんたはもちろんキョンよ!」
俺にしてみれば普段と変わらないんだからまあいい。ここでハルヒからジョンなんぞと言われた日には心臓が二つ三つひっくり返ってもおかしかないからな。
「さあ、今からスタートよ! 絶対あだ名で呼ばなきゃダメ、そして機会がある度に連呼する勢いでいくのよ!」
何かのゲームのように勘違いしているんじゃなかろうか。だがハルヒが楽しそうなのは確かで、それはまあ悪くない。自分が他四人のあだ名を連呼しなければならないという条件が無ければだが。
「まずはみくるん、お茶のお代わり頂戴!」
人数分よ、と言ってのけるハルヒはそのままだと朝比奈さんが恐らく誰とも喋らずに終わるだろうと見越したんだろう。お茶を置くときに必ず丁寧な挨拶と共にくれるのが朝比奈さんの朝比奈さんたる所以だからな。
「は、はいー」
返事をされて、何故かハルヒはじっと朝比奈さんを見つめた。ちょっと視線を逸らすようにした朝比奈さんは、恥じらいながら言う。
「……は、ハルハルさん」
敢えて言おう。ハルヒグッジョブ、と。
ハルヒ本人も俺と似たようなことを考えたらしく、この企画はアタリだわ! とはしゃいでいる。自分の思いつきが思ったより上手くいって楽しいんだろう。しかし本心を言えば、この瞬間だけはハルヒに賛同してもいい。
そして何とはなしに居心地が悪そうだった古泉は、ぎこちなく立ち上がった。
「……今日は囲碁でもどうでしょうか」
そこで言葉を切ろうとして、やはり奴もハルヒの視線に気が付いたらしい。射殺すような目である。
「……キョンさん」
ぶっ、と噴いたのは俺だけだったが。
ちょ、お前キョンさんってなんださんって。
「あだ名というものに今ひとつ慣れていないもので」
古泉はお得意の手のひらを上に向けたポーズで肩をすくめた。だがこれには俺も答えなくてはなるまい。目の前の優男を、可愛らしい呼び名で呼ばねばならん。
「囲碁でもなんでもいいんじゃないか、いっ……ちゃん」
いっそ笑い転げたくなったね。何をやってるんだでかい男が二人して、ちょっと普段と違う呼び方したくらいでぎこちなくなっている。しかし普段からボードゲームに興じていてよかったとこれほど思ったことは無い。なんでかって、喋らなくても全く不自然じゃないからさ。
「ちょっとゆきりん! その本面白いかしら?」
ハルヒがいつもなら気にもしない長門の本の内容なんざを気にしたのも、なんとかして相手に話しかけたい、話しかけてもらいたいという気持ちの表れだろう。長門もそれに答える気分にでもなったのか、顔を上げて淡々と述べた。
「……多少」
お、新たなバリエーションだなと思っているうちに古泉が碁盤と碁石を持って席に戻ってきた。
「ほらゆきりん、続きは?」
ハルヒの顔に擬音をつけるとしたらもう完璧に「わくわく」しかないだろう。あれ、これは擬音じゃなくて擬態語とかいうんだったか?
「……ハルハルも、読む」
おお、語尾が数ミリ上がってるのも解るぞ長門。それがクエスチョンマークを付けるレベルではないところが惜しいところである。さてハルヒは、しげしげと長門の顔と本の表紙を見比べた。『地球博物館』なる本はやっぱりSFなんだろうか。
「そーねえ、ゆきりんが読み終わってからでいいわ」
借りる気らしい。ハルヒも読書などするのかと何故かしみじみした気分になった。
「はっ、ハルハルさん、おかわりです」
お茶を丁寧な手つきで淹れ終わった朝比奈さんがハルヒに湯飲みを差し出す。言われた通りのことを実践しているメイド朝比奈さんがハルヒはたいそうお気に召したらしい。そんな女性陣を尻目に、俺と古泉は黒白の石をそれぞれ握って対戦に入っていた。
「はい、キョンくんもどうぞ」
俺に対するときは全く緊張感がないのは喜ぶべき所か泣くべき所かね。普段と全く同じ呼び方なのだから当然とも言えるが。
「ありがとうございます、えーと、み、みくるんさん」
ダメだ、これではキョンさんと呼んだ古泉を笑えない!
しかしながら考えてみればこのあだ名は名前にちょこっと語尾を足しただけであり、みくる、と呼び捨てするにも近いものがあるではないか。それでは彼女に失礼である。
朝比奈さんが微笑ましげにふふっと笑ったのは幸いだった。
そのままぐるりと机を回り込み、古泉の前にお茶を差し出した。
「どうぞ、いっちゃんくん」
「恐縮です、みくるんさん」
なんと穏やかで不自然なやりとりであろうか。まず俺としては朝比奈さんの発したいっちゃんくんに突っ込み、また古泉に俺の真似をするなとでも言えばいいのか。しかし奴の性格からして全てのあだ名にさん付けして呼ぶだろうことは最早確定どころか規定事項である。
とりあえずいっちゃんくんなんて重複して呼ぶよりはいっくんの方が呼びやすい気がするのだが。だがいっくんねえ、いっちゃんとどっちがマシなんだろうな。
適当に置いた碁石がことりと音を立てた。形だけはきちんとしている古泉が三本の指で挟むようにして碁盤に置くと、ぴしりと実にいい音になるのだが、俺はその持ち方を覚える気にはならなかったのだからしょうがない。
「ゆ、ゆきりんさんもおかわりです」
「……ありがとう、みくるん」
部室の隅っこでそんなやりとりをする二人は微笑ましく、ハルヒすらも春の日だまりを見るような目で二人を見ている。アイドルユニットすら組めそうだ。ゆきりん☆みくるんとかいうコンビ名で。この際センスの無さには目をつむってもらうとして、ハルヒが敏腕マネージャーとかやり手の女社長ってとこか。俺たちはしたっぱでもADでもやってりゃいい。古泉は黙って笑ってるだけなら清涼飲料水のCMぐらいはあっさりこなしそうではあるが。
しばし碁を差しながら、ハルヒがなんやかや話しかけてくるのに四人で答えるという時間が流れていた。ハルヒは日課のネットサーフィンを放置し、朝比奈さんは縫い物も編み物もお茶の研究もせずに時折どもってあだ名を呼び、長門すら本から顔を上げる回数が多かった。俺と古泉はといえば、碁の方にも会話の方にもあまり身が入っていないのが丸解りである。解ったのはお互いだけかもしれんが。どっちつかずでそれでもなんとなくこの試みを楽しみながら、適当に続けていたのが悪かったのかもしれん。
「いっちゃんは変なところに打つな」
背を預けるとぎしりときしむパイプ椅子に寄りかかり、腕を組んでそんなことを言ったんだと思う。それに古泉が苦笑したのは解ったのに、自分の台詞はいまいち頭に残ってない。
「キョンのようにはいきません」
なんだか、なんだか凄く自然にするりと出ましたみたいな言い方で呼ばれた。
ただそれだけだ。それだけなのになんだろうこれは、何かきゅうっと腹が鳴るみたいに胸が収縮した。俺は知ってる、これは、この感覚は――幸せとかそんな感じのものに似ていると。
俺は自分がどんな顔をしているのか、どんな顔をすればいいのかが解らずに、咄嗟にごまかすためにしゃべり出した。自棄になっていたと言ってもいいかもしれない。
「……っ、み、みくるんさんもお茶飲んだらどうですか、ほらゆきりん! たまには本置いてハルハルと一緒にネットサーフィンでもしてみたらどうだ!?」
果たして呼ばれた女子三人は目を瞬かせ(長門ですらぱち、とゆっくり瞬きをした)ハルヒは顔いっぱいに意外だわ、という文字を載せて俺を見ている。
「どうしたのよ、急に乗り気になって」
「どうもしない。どうもしないさ、なあハルハル」
ただこういうのもたまにはいいなと思っただけだ。ちょっとだけな。
そう言うと、ハルヒは満足げに笑んだ。
「当然でしょ! みんなでやって楽しくないことなんてないのよ」
ああハルヒ、それがお前の掴んだ答えならもう俺が文句を言うことはない。塵ほどもない。朝比奈さんも微笑んでいるし、長門も本ではなく部室内のどこかを眺めている。それでいいじゃないか。
古泉の反応? 知ったこっちゃないね。俺はとある事情により、あいつの顔など見ている余裕がなかったからさ。


結局今日は解散まであだ名で無理して呼び合い、ハルヒの「まあ満足したからこの辺でいいでしょ、あまり呼びすぎると慣れちゃって面白くないわ」という鶴の一声によりこの呼び方は本日までと相成った。正直安心した。
結局朝比奈さんと古泉はあだ名に敬称をつけて呼ぶ癖が抜けなかったし、長門は振られなければ話題提起することはなかった。ハルヒは誰よりもあだ名を連呼していたから、その分飽きたんだろうと俺は推測している。
「ああ疲れた」
女性陣と別れてから思わず本音を漏らすと、古泉はくすりと笑った。
「そうですね、慣れないことをしたもので僕も疲れが出ました」
最後の方は結構楽しんでたように思えるぞ、お前。特にキョンと発するのが多かった気がするのは俺の気のせいではあるまい。
「はは、実はちょっと呼んでみたかったんです。でも、あなたあの呼び名を嫌っていらっしゃるから」
「実はいっちゃんと呼ばれてみたかったんです、とでも言いだしそうだな」
「それもあります。でも涼宮さんが名前の方で呼び合おうと言わなくて助かりました」
そして耳元で、多分に息を混ぜて俺の名を呟いた。背筋を走った震えは寒気であり、決してぞくりと来たからとかではない。断じてない。
「こちらは僕の特権のようなものですからね」
何が特権だ何が、とは言わなかった。何故なら俺も恥ずかしいことに似たようなことを考えていたからに他ならない。こいつの名前を呼ぶというのは、少しばかり俺に優越感をもたらしてくれる。
「……そうかもな、一樹」
ああ例えば、あの時自然にキョンと言いやがった声を聞いたときのような、そんな気分になった。呼ばれただけでふわりと笑みを浮かべるのだから、それはそれはこいつは甘ったるく恥ずかしい男なのだ。今日差し出されたお茶よりも甘い。その茶の名前が甜茶だということは今日初めて知った。花粉症に良いらしい。
恥ずかしい奴だと呟くことはしなかった。恐らく今の俺は世界で二番目くらいに恥ずかしい男だからだ。一番? そんなもん、握った手に強く力を加えたこいつに決まってる。そして俺の足が向く先も決まっていて、ああ俺たちはきっと世界で一番恥ずかしい。
あだ名よりも本名の方が恥ずかしいってのは一体どういう作用なんだろうね。今なら古泉の長ったらしい演説を聴いてやっても良いと思ったが、こんな時に限ってこいつの弁舌は影を潜める。初めの頃は僕の部屋に来ませんか、とか初々しい誘い文句があったってのにな。ふてぶてしくなったもんだ、俺もお前も。
今日は最中にいっちゃんと呼んで萎えるかどうか試してやる、となんとも情けない決心をしながら俺は古泉宅への道を辿った。



End.



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